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九州の溯渓

主に九州の溯渓記録を集めたものです。 良かったら覗いていって下さい。

豊後街道 第十回 峠の茶屋跡~坂ノ下

いよいよ豊後街道の最終調査。
峠の茶屋~二重ノ峠~坂ノ下の区間。

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左:大津の端にある六里木跡。ここから本格的な峠越え。

右:清正公(せいしょこ)道(豊後街道のこの付近での別称)の北半分に,現在のミルクロードが通っている。堀ヶ谷(旧:方里ヶ谷)へは現在の道筋とは少しずれている。現在の四つ角手前から左へ入るイメージ。四つ角は地形的に盛り上がっており,無駄に高度を稼がない効果的なコース取り。

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左:おそらく旧街道跡(写真左半分)。幅2~3m,掘り込み1m。ミルクロードに寸断されているが,これを下に辿っていくと,堀ヶ谷からの道と繋がる。この100m上に峠の茶屋跡があるので,位置的に間違いないだろう。

右:峠の茶屋跡近くにある七里木跡。電柱がある所。この電柱がかつてのコースを読み解く上でのヒントとなる。

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左:現在の峠の茶屋跡。
右:1985年頃の峠の茶屋跡。

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左:二重ノ峠(ふたえのとうげ)の俯瞰図。峠が二重になっているのがわかる。

右:現在の車道の少し西寄りの尾根近くに電線が延びており,これが旧街道跡を示していると考えられる。根拠は,電柱は私有地には敷設できないので,かつての参勤道,つまり公道(国有地)沿いに敷設されているからです。二重ノ峠付近は1980年代に四方への舗装化が完了して,現在のようになりましたが,その当時でさえ,街道跡はすでに判別できなかったとのことです。よって,峠の茶屋跡~二重ノ峠交差点までのコースは,電柱下コースが最有力です。

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左:ここから坂ノ下までの下りが始まる。

右:坂を少し下るとこの風景が飛び込んでくる。これこそ阿蘇の醍醐味。大陸的開豁感。いつ,どこから見てもスケールの大きさを感じさせてくれる。

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左:ここの石畳は,きれいに整備されおり,歩きはもちろん,走っても問題ない。

右:上り返しはトレーニングで,下からノンストップで走り上がる。斜度は0~20%位まであり,場所によっては山道並み。石畳は足元が安定するので,グイグイ登っていけるのが良い。

これにて豊後街道31里(124km)の全コースの調査終了。
最後に,滝室坂の旧道のトゲ草類の伐採をしたり,トレランで脚を作る必要があります。

実行は4月中旬。江戸時代も4月に参勤は行われていたので,桜咲く時期に,一気に走り切れれば最高です。

熊本城2:00発~鶴崎法心寺20:00の予定。


★次回は,トレラン or 沢始 です。

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豊後街道 第九回 滝室坂

今回は,豊後街道で,最大の難所と言われた滝室坂の下部調査です。
国道から上部は先日の調査で旧道や石畳跡を確認できました。

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左:坂梨からいったん57号に合流。すぐに右折していく。
右:護法社までの整備された石畳。街道は社下で左折して沢の二俣に下りていく。

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左:二俣を左に取る。沢伝いにいくと4m滝が出現。昔もここを越えていたのだろうか?だとすれば,結構な難所だったと思われる。

右:沢の渓相はこんな感じ。沢というより少し荒れた山道という感じ。

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左:沢沿いには,部分的に石畳が残る。かつては坂梨から坂ノ上までの約3km全てが石畳であったという。見てみたかったな~。

右:最後は左の右岸を上り詰めると見覚えのある場所へ抜け出す。国道57号との合流点。街道は57号を突っ切って,さらに沢沿いに進んでいく。

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左:古い資料から。整備前後の街道の様子がわかる。

右:滝室坂上部のコース。街道は傾斜を上手に殺しながらジグ(屈曲)を繰り返し,現在「カヲの墓」の道標がある場所で57号と合流している。ここも上手なコース取りだと言える。
 この辺りの山道のつけ方は,昔も今も同じ手法なので見つけやすかった。ただ下部の最初にジグを切る場所は密集竹やぶや斜面崩壊等で非常にわかりづらい。しかし,唯一その場所で,土砂流出により周囲より高くなった石畳を見つけることができた。これで57号を走らなくて済む。
 
 ここからちょっとマニアックになります。興味のない方は飛ばしてください。

 線構図的に捉えると自然の森は基本的に垂直線で構成されているので,その中で平行線となるものが確認できる時は,地層の平行層理を除けば,人工物との判断が下せる。電線,高架,林業用ワイヤーなど,人が活用するのは主に平行線物。この視座に立ち,下から山の斜面を見上げると,人工的に作られた山道(街道跡も)もはっきりと見えてきます。まあ,参勤道は傾斜を上げる必要があるので,緩傾斜の斜線ではありますが。
 
 しかし,地質や植生によっては必ずしもこの限りではありません。街道のようなある程度幅がある道は残存しやすいですが,幅が1mにも満たないような山道では数十年すれば斜面崩壊によって,土砂に埋もれやすい。特に阿蘇周辺は火山灰土なので,微細粒子であることと,粒子間の結合力が弱いことで,降水による土壌流出が顕著。
 
 一方,滝室坂の街道斜面は西南西を向いており夏期(南東)や冬期(北西)の降水の影響を受けにくい点と,杉の大量,不規則な植林により,ある程度土砂の流出が抑えられている点が挙げられます。杉自体は浅根性(せんこんせい)といって元々根張りが浅く,~街道沿いの里塚に用いられた榎は深根性で土壌保持には有効。先人の知恵に感心~,地杉ではなく植林杉は特にそれが顕著なので,土壌保持には極めて不向きなのですが,それが不規則に(いい加減に?)植林されているせいで,逆効果となって現れている。
 
 以上の視点から見て,同じ街道でも,夏期の降水の影響を受けやすい東面を向いている,二重ノ峠からの下り道では,頻繁で徹底した街道整備が必要であり,それであのような,排水機構を備えた,堅牢な石畳が残されていることが推測できます(もちろん地元の方々の熱意いよるところ大です)。
 また,大分の今市(いまいち)にも有名な石畳が残っていますが,あそこは街道中唯一,平坦路に作られたものと考えられています(基本的に石畳の目的は急坂の街道保持)。なぜ今市なのか?その理由は今市の地理的位置にあります。尾根端の緩斜面に位置するため,風雨の影響を受けて街道がグチャグチャになりやすかったためだと考えられています。

長々とマニアックになってしまいました。

今回で九回目ですが,調査を重ねる内に,豊後街道31里(124km)を走るのは,単に体力・脚力だけの問題ではなく,この距離の中に受け継がれている歴史をも走ることだとも思えるようになってきました。そのためにはまず,自然に学び,先人に学び,そして地域住民に学ぶ。そうして自分の知識や知恵を,その距離の中にある歴史に見合うものにしなければ,と痛感しています。


★次回は,峠集落跡~二重ノ峠までの尾根沿い旧道調査です。
果たして道は残っているのか?
 
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豊後街道 第八回 坂ノ下~坂梨

さて今回は,二重ノ峠下にある坂ノ下~坂梨の区間の調査です。
ちょうど阿蘇谷を端から端まで辿るコースになります。

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左:まずは坂ノ下に向かう。二重ノ峠は本当に,外輪山の弱点をついたコース取りだと感じる。清正公以前に道を作った人たちの先見の明に驚かされる。

右:石畳はここに降りてくる。この「二重ノ峠の石畳」は街道中,最も整備の行き届いた石畳。

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左:八里木跡。熊本城から約4km×8=約32km地点。
右:かつての休憩場所。今回,初めて来たが,水が豊富でミニ江津湖みたい。阿蘇にこんな所があったなんて驚き。

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左:阿蘇八石の一つ。「的石(まといし)」。由来は阿蘇開拓の神である,健磐龍命(たけいわ たつのみこと)が今の往生岳(おうじょうだけ)からこの石めがけて弓の練習をしたことに因む。またこの伝説は鬼八,霜宮神社,火焚き神事とも絡んでくる。いけないいけない,いつもの癖で長くなるので,詳細は割愛させてもらいます。

右:街道外略図。

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左:内牧(うちのまき)の宿場を抜けて坂梨へ向かう途中の道標。ここを右にとる。

右:坂梨にある「天神橋」。実はこの名前は昔からのものではなく,1977年(S52)に文化財指定の際に,名づけられた。石工責任者は,あの種山の卯助(うすけ)である。「霊台橋(れいだいきょう)」(下益城郡美里町,国指定重要文化財)・・・とくればピンとくるかもしれない。あれは彼の最大の偉業とされる。

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左:坂梨宿の番所跡にある最近できた記念石碑。
右:この木はかつての十三里木ではないが,この木の根元に里標がある。

とまあ阿蘇谷を横断するコース調査でした。


★次はいよいよ,豊後街道の最難関「滝室坂」をお送りします。

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豊後街道 第七回 胡麻鶴大橋~鶴崎(法心寺)

さて,いよいよ市街地を走る最終区間。
ようやく鶴崎まで辿りつきました。

4瀬下       P3190075.jpg       
左:田吹橋から下流を眺める。この辺りが四の瀬。すぐ下流が五の瀬。この辺りは廻栖野(めぐすの)。
右:胡麻鶴橋付近の六の瀬を渡ると集落を抜ける。その途上にある峠。

7瀬       P3190077.jpg
左:最後の七の瀬は,大分自動車道の高架下。ここは浅いので歩いていける。

右:何もない農道を行く。先で川の土手にぶつかるので,左折すると八万田。この辺りは開発が進み,かつての道を探すのが大変。

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左:有名なJRのガード下。
右:197号線を越えて最初の角を右折すると萩原商店街へ。ここを東進。

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左:そしてゴールの法心寺(ほうしんじ)。

右:清正公の胸像。こんな所で見かけるとは,意外の一言。台座左が桔梗(ききょう)紋,右が蛇の目(じゃのめ)紋。清正が使い分けていた家紋だ(因みに細川は九曜紋)。桔梗紋は元々は讃岐の尾藤(びとう)家のもの。秀吉から調度品や家臣団を与えられた時から使うようになった。主に慶事用として使用されていた。蛇の目紋は戦用に使われていたもの。また彼は文化事には折墨(おれずみ)という家紋を用いていた。

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左:かつての鶴崎茶屋跡。現在は鶴崎小学校となっている。
右:かつての船着場、左の場所より海沿いに行った新堀公園の一角にある。

七回目の調査でようやくゴールの鶴崎まで来れました。感激です。
これでコースが頭の中で全て繋がりました。残すは部分的に未調査の箇所を調べるのみ。


★次回は,二重峠下の坂ノ下~坂梨の区間の調査です。

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豊後街道 第六回 今市~胡麻鶴大橋

さて,目的地の鶴崎まであと約20kmになってきました。
今回は山を下り,平野部の調査です。

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左:小倉(おぐら)峠~今市への412号バイパス。街道は左の道。すぐ先で再びバイパスと合流。412号沿いにはこのような箇所が数箇所残っている。

右:今市の先にある,堪水(たまりみず)集落にある三渠碑(さんきょひ)。「渠」(キョ,みぞ)とは人工の水路のことで,山間の農耕のために工藤三助(元禄期)さんの活躍ぶりを示したもの。同じ「渠」でもこのような良例と,斉明天皇の「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)のような悪例とがある。

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左:堪水集落を抜けると新しい619号バイパスが横断している。街道は619号バイパスを突っ切って民家を抜け412号バイパスにいったん合流。その先で旧619号に入り(今では下部は消失。上部のみ残る),斜面をジグで登り,尾根筋を田ノ口集落へ向かい,山の北斜面を回りこんで,ハゼ山~坂口の石畳と下っていく。この山を回り込んでいく道は,一車線の舗装道が延びている。旧道は一部これとはコースがずれているが,現在,旧道は廃道状態で判別不能。

右:矢ノ原集落の端では,ミニ石橋を潜って進む。

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左:矢ノ原~宮ノ脇間は砕石場が街道を消滅させているが,予想を立てて山越えしていく。できる限り,昔のコースを辿りたい。

右:今も残る貴重な矢貫の石橋。一枚岩が当時と変わらず架かっている。ここから再び山(丘)越え。ほんと,街道はほぼ一直線に目的地に延びている。感心する。

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左:矢貫の石橋の少し先から山登りが始まる。そこにある石塚の石畳。

右:山越えで野津原(のつはる)へ降りてくる。本来は,もっと先に下りていたが,民家ができた関係で,このように不自然なコース取りとなってしまった。

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左:野津原を抜けた先にある往還田(おうかんた)。街道が通っていた場所が払い下げられ耕地→再び買い上げられ道路となり,その道筋が青色で示されている。先にある安全塔目指して,七瀬川を歩渡りする。橋の近くが「二の瀬」,いったん河原に上がり,すぐに「三の瀬」を渡ると,安全塔近くに出る。

※往還田に見られるように,参勤道=公道という見方は,コースを判断する上で役に立つ指標の一つとなる。例えば電柱は,公道沿いにしか敷設できないので,山間部で参勤道跡を探す際には,電柱のラインを読むことで街道跡が推測できる。

右:安全塔から来し方を振り返る。こんな近くで二回も歩渡りせずとも,川沿いに進むことは考えなかったのだろうか,との疑問がよぎる。野津原防衛のために,敢えて陸路ではなく,水路にしたことも考えられる。何たって清正公のことだからね。敵勢が大分側から進軍する場合,ここまで来るのに,七瀬川を4回も渡らないといけなかったわけで,それだけ進軍を大幅に遅らせたり,迎撃しやすい状況を作り出せる。

今回も色々な発見があった調査でした。


★次回はいよいよ鶴崎までのコースが判明しました。
市街地の佳境に突入です。

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豊後街道 第五回 堀ヶ谷(ほりがたに)~二重ノ峠(ふたえのとうげ)

今回は近所の調査。隙間時間での調査です。

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左:大津の高尾野先で左折。いったんミルクロードから逸れる。
※追記:本来の参勤道はこのバイパス道ではなく,ここから少し手前からミルクロードを横断し,堀ヶ谷へ向かっていた模様。それらしき道を植林帯の中で発見。

右:上から200m程下ると堀ヶ谷橋があるので,そこの右手に入っていく。

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左:きれいに整備されている感じ。
右:尾根筋は竹林帯。街道は尾根筋についており,合理的なルート取り。

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左:作業道を経て再びミルクロードに合流。実はここも本来の参勤道とは少しずれている。本来の道はこの舗装道より少し北側を通っており,今でもその掘り込み跡が確認できる。この標柱から道路を上へ20m程進んだカーブの所で,左下から上がってくる凹道が確認できます。それがかつての道です。その道を下っていくと標柱から200m程下った場所で合流し,尾根筋を堀ヶ谷まで下っていきます。

右:地図上の「峠」。最近まであった一軒家は解体されている。その先で右に入るとある資料にあるので右折。この辺が七里木跡。しかしその道は古いがどう見ても街道とは言いがたい。これまでの街道のコース取りから考えると,本来の街道ではないように思える。二重ノ峠まで,下部はほぼダイレクトライン上にあったが,ここからはそのラインから逸れすぎているし,緩い地形にも関わらず,無駄にトラバースをしている。今度,公文古書で調べてみよう。

追記:
 やはりこの右折道は本来の参勤道とは違うようです。七里木跡を通っていたことは確かですが,ここから二重ノ峠手前の交差点までのルートが,今となっては解明する手立てがありません。有力なコースとしては,前述の交差点の少し西寄りに東西に伸びる小尾根があり,ここに電柱が延びています。電柱は私有地には敷設することはできないので,公道沿いに立てることになります。つまりこの電柱下が,かつて公道だった参勤道跡だと考えられるというわけです。
 この電柱は前述の交差点から植林帯を下り,ミルクロードを横断し,七里木跡まで降りてくるので,参勤道との整合性があります。現在の大津,阿蘇の住民で確かなことを知る人物はもういませんので,状況証拠で,かつてのコースを想像するしかありません。

★次も調査になります。


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豊後街道 第四回 熊本城周辺

さて今回の調査は,出発地点となる里程元標(りていげんぴょう)の確認です。
時間が限られていたので,ちょちょっと調査してきました。

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左:ここが各街道の起点となる「札の辻(ふだのつじ)」。かつて種々の立て札があったことに由来。

右:札の辻からのルートは2つ。一つは里程標右横の法華坂を上って百軒石垣の所に出るコース。もう一つは,写真のように藤崎台球場の左を回りこんで,百軒石垣に出るコース。調査記録では,前述のコースがよく採られていたようだ。

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左:城をぐるーっと回り込み,ここへ出てくる。直進して観音坂を下り左折。右折して右の写真へ。
右:国道3号と交差する浄行寺(じょうぎょうじ)交差点。街道は直進して57号線を大津まで辿る。

隙間時間にちょちょっと調査完了。


★次はミルクロード,内の牧,それと滝室坂(たきむろざか)の調査です。

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豊後街道 第三回 久住(くじゅう)~今市(いまいち)

コース調査も三回目を迎え,いよいよ佳境の山間部越えです。
最近は雨ばかりで気が滅入りますが,調査の日にはやる気満々。

ではどうぞ。

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左:単なる作業道のようですが,これこそ参勤道そのもの。堀込,杉,空間の狭窄間,目的地への直線上に位置,などの特徴と,その道が持つ独特の雰囲気がわかり出した気がする。

右:知事様塔。これが目印。石碑最上部の九曜紋で細川のものとわかる。三星紋,七曜紋など星紋(家紋の一種)で最も使われているものであり,奥州の伊達家も政宗の代から使用。因みに中心が太陽,周囲が惑星を表しています。また細川の九曜紋はノーマルな物と比べ,中心と周囲の間隔が広めにとってあります(七代:宗孝が板倉修理に江戸城内で誤殺された件により)。また,熊本名物「からしれんこん」の中の穴は,この九曜紋を参考に作られていることは周知の事実。

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左:神馬(かんば)の石橋までの前回ルートは誤りであったことが地元の人の話で判明。正式なルートは,光照寺先の交差点を左折。道なりに行くと左下にバイパスへ降りる道が見えてくる地点で,先に右に分岐する山道があるのでこれを取る(上の写真)。80mも行くと「知事様塔」が左手上にあり,さらに150m行くと左下に下る道を取る。これを下ると稲葉湖へのバイパス道下をくぐり,写真の場所に出てくる。地図で確認すると,目的地まで直線的で合理的なコースとなっており納得。

右:久住役場駐車場に茶屋場跡の石碑。

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左:久住宿(くじゅうしゅく)までは確認済みなのであっという間。そして総合運動公園内を進む。テニスコートの周囲を矢印のように回りこむと参勤道が現れ,右下へと下っていく。かつての参勤道は現在のテニスコートとその上にあるグラウンドの境を通っていた。

右:ここもわかりづらい。民家へ上がる道の途中から右手へ山道が伸び,これが参勤道。

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左:右上の道を登ると尾根上に出て,向いの道を下っていくと境川集落で,ここに着く。ここはかつて肥後藩久住と岡藩の境であったことからの由来。

右:ゴールは既に射程内。ここから参勤道はこのほぼ412号線沿いに続いていた模様。

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左:大分県で見かける看板。概要はよくわかるが,詳細が不明。
右:ロードパークの石碑。こんなよくわかる所ではなく,山間部に設置してほしいものだ。

ここからは道沿いであっという間に距離を稼げる。
小倉(おくら)→古屋敷→四ツ口(よつぐち)→追分(おいわけ)→南原(みなみばる)→神堤(かみつつみ)→釜割→梨原→小無田(こむた)→石合原(いさいばる)と経て,今市(いまいち)へと続く。


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左:今市の石畳。これは凄い!よく残っていたものだ。整備された方に感謝。
右:各敷地の前にはこんな木札が立ててあり,往時を偲ぶことができる。

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左:宿の防御上の構造。さすがは信玄。

右:石畳は基本,道路の中央部の幅2mほどですが,一部では全面の残っている箇所もあります。石は凝灰岩なので当時の技術でも十分に加工可能。ただこの石は粒子が微細なため,濡れると極端に摩擦係数が低くなる傾向があり,今日みたいな湿度が高い日は滑りやすくなります。

とまあ,何とか今市(いまいち)には到達できました。

久住宿の少し先の境川集落までは,難儀する場面もありましたが,そこから先は98%車道で,場所によってはどう見ても参勤道が車道から逸れているような堀込もあったのですが,ほぼ重なっている。

今回の白眉は,何と言っても今市の石畳。
よくぞここまで保存してくれました!8m幅の道の中央に伸びている様は圧巻で,往時の参列者の気分で歩いてみました。「上に~上に~」って感じでしょうか。

さて残すは30kmちょっと。
山間部を下り最後のメイン宿場の野津原(のつはる),そして平野を東進し,鶴崎まで。
ゴールを既に捉えています。


★次回は天候次第。いずれにしてもラン関係です。


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豊後街道 第二回 米賀(こめか)~久住(くじゅう)

さて豊後街道シリーズ第二弾。
今回は米賀(こめか)~久住(くじゅう)までの調査です。

今回も色々ありました・・・。
ではどうぞ。

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左:産山(うぶやま)の石畳から境の松を経て大分県に入り,最初のチェックポイント。西進→北進に。

右:左のポイントから北に3~4km行った地点。バイパスと旧道の交差点。こういう所が最もやっかい。大抵の場合,新道は旧道を分断していたり,旧道と重なったかと思えば,ずれていたりと,散々うろつくはめになる。

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左:ここも新道のせいでわかりづらくなっているポイント。今回の調査での教訓「歴史の発掘を妨げるものの一つは,文明社会における利便性である。」

右:やっと確認。新橋の上から眺める。大正時代(1924)に架けられた石橋。参勤道は本来,もっと上流の米賀集落内を通っていた模様。

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左:ここも難儀した神馬(かんば)の石橋。白丹(しらに)から神馬まではバイパス(最新道路地図にもない)のオンパレードで,非常にわかりづらかった難所だった。現代版豊後街道においては,滝室坂,弁天坂などの急坂より,まずはコースを見つけ出す方がはるかに困難。

右:神馬の石橋を渡り15m進み,右へ急折。坂道を一里山集落へ登っていく。その集落の北はずれにあるのがこれ。石灯籠。熊本城から数えて18里塚(72km)あたり。一里(4km)とは久住宿からみた距離だと思われる。

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左:久住の町中を抜け神堤(かみつつみ)方面への道。途中,左折して総合運動公園を目指す。運動公園はかつて縄文時代の遺跡(コウゴー松遺跡)が見つかった場所でもあったが,肥後街道もろとも整地された模様。

※肥後街道・・・豊後街道の大分側の呼称。大分県内では,肥後街道,または参勤道の方が通りが良い。

右:運動公園から道に迷った挙句の果てがこれ。人間,焦ったらダメですね,やっぱり。人生二度目のスタック。

結局,運動公園からの道は,敷地内に進入→100mほど直進すると右下にテニスコートがある→その手前を右折→コートの右端に切り分けがあり,それに沿ってコートを最奥まで回りこんで行き,右折して下っていくと,参勤道跡が現れ,黒岩橋から200m程内地へ入り込んだ場所へ出てきます。そして目の前の丘を越えて行けば,境川集落です。

車をスタックさせた見返りに得た貴重な情報でした。

今回はここまで。

いや~たかだが5kmくらいの道を探し出すのに4時間もかかりました。
この現代においてここまで非効率な作業も珍しいのではないでしょうか。

標識なし,人影なし,何もなし,の三重苦でイライラすることは当然ありますが,それと同様に,未踏の道を見つけ出す面白さをも感じている次第です。道が繋がった時などは「やったー!」となります。

こうなれば徹底的にコースを調査し,角という角の写真をとりまくり,2万5千分の1の地形図に,詳細なコースを記入していくことを固く誓う。完全に火がついた感じです。

これで熊本城から久住まで,コースを走る姿がイメージできてきました。久住まで11時間ってところでしょう。
本番は4月中。3:00熊本城出発~22:00鶴崎着。124km / 19時間と見ています。

残りは,境川~古屋敷~神堤(かみつつみ)~今市(いまいち)~野津原(のつはる)~鶴崎です。これからはルートもわかりやすくなってくるので,山間部の佳境は越えた,と勝手に楽観ししたい心境です(・・・でも再び迷ってみたい気持ちもある)。


★次回も街道調査です。さて,次はどこまで行けるか。


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